喜びを感じる時
先週、いつも簿記などを一緒に勉強している人達の間で、「これまでで嬉しいと感じた経験」というのが話題になりました。いろいろな経験や性格の持ち主がいるので、面白い話がたくさん聞けました。
話を聞きながらよく考えてみると、いくつかの共通点があることに気づきました。どうも「嬉しい」と感じさせるものは、達成感や満足感のようなものらしいように思われるのです。
達成感は、具体的に目標数値を達成したとか、できなかったことができるようになったとか、自分の努力が好結果をもたらしたような場合に味わえるものですよね。例えば学生の場合、まぐれで良い点数を取ったとしたら、「ラッキー」とは思っても、達成感は得られません。むしろ、次もタナボタを期待してしまって、本人にとってはマイナスになってしまうことも有り得るのではないでしょうか。反対に、努力して良い点数を取ったとしたら、「自分もやればできるんだ。次は更に頑張ろう。」というような、プラスのエネルギーにつながるのではないでしょうか。そうしてできることが増えていった時に、もっと大きな達成感や自信がついてくるのではないかと思います。
満足感は、達成感に近いのですが、目に見える結果が伴わない場合でも感じることができる喜びのように思います。普段やりたくてもできなかったことを思い存分やれたとか、自分が何かをしたことで人に喜んでもらえたとか、頑張りを誰かに認められて評価されたとかという場合に味わえるものだと思います。私の場合は、大学で手話サークルに入って活動していたので、些細な場面でも、自分の手話通訳が役に立った時はとても嬉しかったという経験が何度もあります。
ところが、「嬉しさ」や「喜び」って、常に感じられるものでもありませんよね。どちらかといえば、日常生活の中では、その反対の気分を味わうことが多いように感じられます(私だけかも)。しかし、「悔しさ」や「不満足感」も、嬉しくはありませんが、前進するためのステップとしては必要なのかもしれないと思うのです。「悔しさ」をバネして頑張った話や、「不満足感」から新たな発見に結びついたという話もよく耳にします。何かを成し遂げた人って、たいてい現状に満足せず、もっと良いものや事柄を追求していった人だと思うのです。
いつもいつも喜びだけでは腑抜けてしまう。いつもいつも苦しいだけでは挫けてしまう。たくさんのことを味わって、豊かな人生にしていきたいし、いろいろな人の人生に関わって、嬉しいことも辛いことも分かち合っていけたら、達成感も満足感も同時に感じられるのかもしれません。
話を聞きながらよく考えてみると、いくつかの共通点があることに気づきました。どうも「嬉しい」と感じさせるものは、達成感や満足感のようなものらしいように思われるのです。
達成感は、具体的に目標数値を達成したとか、できなかったことができるようになったとか、自分の努力が好結果をもたらしたような場合に味わえるものですよね。例えば学生の場合、まぐれで良い点数を取ったとしたら、「ラッキー」とは思っても、達成感は得られません。むしろ、次もタナボタを期待してしまって、本人にとってはマイナスになってしまうことも有り得るのではないでしょうか。反対に、努力して良い点数を取ったとしたら、「自分もやればできるんだ。次は更に頑張ろう。」というような、プラスのエネルギーにつながるのではないでしょうか。そうしてできることが増えていった時に、もっと大きな達成感や自信がついてくるのではないかと思います。
満足感は、達成感に近いのですが、目に見える結果が伴わない場合でも感じることができる喜びのように思います。普段やりたくてもできなかったことを思い存分やれたとか、自分が何かをしたことで人に喜んでもらえたとか、頑張りを誰かに認められて評価されたとかという場合に味わえるものだと思います。私の場合は、大学で手話サークルに入って活動していたので、些細な場面でも、自分の手話通訳が役に立った時はとても嬉しかったという経験が何度もあります。
ところが、「嬉しさ」や「喜び」って、常に感じられるものでもありませんよね。どちらかといえば、日常生活の中では、その反対の気分を味わうことが多いように感じられます(私だけかも)。しかし、「悔しさ」や「不満足感」も、嬉しくはありませんが、前進するためのステップとしては必要なのかもしれないと思うのです。「悔しさ」をバネして頑張った話や、「不満足感」から新たな発見に結びついたという話もよく耳にします。何かを成し遂げた人って、たいてい現状に満足せず、もっと良いものや事柄を追求していった人だと思うのです。
いつもいつも喜びだけでは腑抜けてしまう。いつもいつも苦しいだけでは挫けてしまう。たくさんのことを味わって、豊かな人生にしていきたいし、いろいろな人の人生に関わって、嬉しいことも辛いことも分かち合っていけたら、達成感も満足感も同時に感じられるのかもしれません。
簿記
ただ今、6月10日の日商簿記2級にむけて勉強中です。どうも電卓に頼ることに抵抗感があり、最終的な合計など以外は、つい暗算か筆算で出そうとしてしまいます。勘定科目にも余計な送り仮名をうっかり書きそうになったり。悪戦苦闘しながらも、なんとか仕事と両立させていかなくちゃ。頭の体操がてらに、簿記の学習、けっこうお勧めです。
被災動物に目を向けてください
久しぶりの更新です。ある方から催促されてしまいました。申し訳ありません。
最近は、家庭教師以外にも、結構いろいろなことにチャレンジしております。昨年は、漢字検定2級・英語検定準2級・日商簿記検定3級・秘書検定2級などを取得することができました。現在は、6月10日に簿記2級に合格したいと思って、3級範囲の復習からスタートしたところです。
また、今年の1月から、被災動物のボランティアの手伝いを始めました。私が行っているのは、猫のシェルターです。昨年の3月の東日本大震災で、多数の人々が被災しました。同時に、動物たちも大変な目に遭っています。地震や津波、更には原発で、それまでペットとして飼われていた動物達も、家や飼い主を失い、生きていることが困難な状況になっています。
先日も、自分が猫の世話をしていた時に、避難しなければならなくなった飼い主さんが、涙ながらに猫を預けて行きました。自分も動物を飼っているので、飼い主さんの気持ちを考えると、どう言えばいいのかわからず、困ってしまいました。
辛いですが、飼い主さんにしても、これから新しい生活を築いていくためにも、ペットが元気でいてくれるということが支えになると思うので、そのお手伝いが、ほんの少しでもできたらいいな、などと考えております。
被災動物を保護している団体はたくさんあります。施設の賃貸料や、動物の毎日の餌・トイレ・医療費、運送費などの費用は多大です。それでも震災直後より寄付も減少している所が多いです。
人手不足も深刻です。避難地区などでの動物の保護に行くにも、獣医さんに動物を連れて行く時も、留守の間、残る動物の世話は欠かせません。
里親になってくださる方も1人でも多くの方の協力が必要です。幸いなことに、元の飼い主さんに出会えたペットもいますが、元の飼い主さんに会えない動物が大多数です。それに、里親になってくださる方が増えれば、ペットと巡り合えないで心配している元の飼い主さん達も希望が持てるようになると思うのです。
不幸な動物が、1匹でも多く救われますように、そして、自分のペットが元気でいてくれるという希望を持って、新しい生活を築いていく方が増えてくれますように、そんなことを願いつつ、もし、協力してくださる方がいらしたら、大変ありがたいです。
最近は、家庭教師以外にも、結構いろいろなことにチャレンジしております。昨年は、漢字検定2級・英語検定準2級・日商簿記検定3級・秘書検定2級などを取得することができました。現在は、6月10日に簿記2級に合格したいと思って、3級範囲の復習からスタートしたところです。
また、今年の1月から、被災動物のボランティアの手伝いを始めました。私が行っているのは、猫のシェルターです。昨年の3月の東日本大震災で、多数の人々が被災しました。同時に、動物たちも大変な目に遭っています。地震や津波、更には原発で、それまでペットとして飼われていた動物達も、家や飼い主を失い、生きていることが困難な状況になっています。
先日も、自分が猫の世話をしていた時に、避難しなければならなくなった飼い主さんが、涙ながらに猫を預けて行きました。自分も動物を飼っているので、飼い主さんの気持ちを考えると、どう言えばいいのかわからず、困ってしまいました。
辛いですが、飼い主さんにしても、これから新しい生活を築いていくためにも、ペットが元気でいてくれるということが支えになると思うので、そのお手伝いが、ほんの少しでもできたらいいな、などと考えております。
被災動物を保護している団体はたくさんあります。施設の賃貸料や、動物の毎日の餌・トイレ・医療費、運送費などの費用は多大です。それでも震災直後より寄付も減少している所が多いです。
人手不足も深刻です。避難地区などでの動物の保護に行くにも、獣医さんに動物を連れて行く時も、留守の間、残る動物の世話は欠かせません。
里親になってくださる方も1人でも多くの方の協力が必要です。幸いなことに、元の飼い主さんに出会えたペットもいますが、元の飼い主さんに会えない動物が大多数です。それに、里親になってくださる方が増えれば、ペットと巡り合えないで心配している元の飼い主さん達も希望が持てるようになると思うのです。
不幸な動物が、1匹でも多く救われますように、そして、自分のペットが元気でいてくれるという希望を持って、新しい生活を築いていく方が増えてくれますように、そんなことを願いつつ、もし、協力してくださる方がいらしたら、大変ありがたいです。
知識の獲得
大学1年の時に、中学時代に通っていた塾の先生に頼まれて、その塾の講師のアルバイトを始めました。並行して、近所の子ども達にも、「サッカーと勉強を教えてくれるお姉さん」という形で、しょっちゅう子ども達と関わってきました。以来、X年間、本当にたくさんの子ども達を見る機会に恵まれてきました。
X年前の子ども達と、今の子ども達は、全く異なります。勿論、いつの子ども達も、1人1人の個性は様々ですが、そういう個人的な違い以外に、奥底にある子ども共有の感覚(ユングの言う「集合的無意識・共通的無意識」に近い物)が、根底から変わってきているような感じがしてなりません。
学習面でも、以前は、知識の吸収の仕方が体系的で、0次元(点)→1次元(線)→2次元(面)→3次元(立体)という広がりがあったはずです。しかし、最近は、その場での効率が優先されてしまうのか、大人が待てないのか、知識が単なる0次元かせいぜい1次元で、それがバラバラに交錯しているだけのケースに出会うことが多いです。なので、小学校で習ったような事も、中学に入ると忘れていて、「ああ、そういえば習ったかも。」というようなあやふやな記憶になってしまっていることが増えています。
例えば、『枕草子』を読むとします。これが書かれたのは平安時代で、しかも遣唐使も廃止されて外国の影響も少なく、大きな内乱も治まっていた、のどかな時代です。ほとんどが宮中でのお話ですから、優雅な十二単などを着たりしていた雰囲気です。そういう、作品の前提を想像できずに、現代の感覚で読んでも、全くイメージが掴めません。学校では、『枕草子』は、「平安時代の中期に清少納言によって書かれた」程度の予備知識しか説明されないことが多いのではないでしょうか。そして、重要語句や文法や現代語訳という単発知識の習得に終始してしまうことも多いのではないでしょうか。
学校教育の中では、各単元にかける時間配分の制約があるので致し方ないところですが、せめて、子どもを取り巻く社会の大人の中で、知識を体系化できるような、「無用の用」的なもの、ハンバーグのつなぎのようなものを少しでも分けてあげることのできる人が増えてくれないかなあと、期待しています。
X年前の子ども達と、今の子ども達は、全く異なります。勿論、いつの子ども達も、1人1人の個性は様々ですが、そういう個人的な違い以外に、奥底にある子ども共有の感覚(ユングの言う「集合的無意識・共通的無意識」に近い物)が、根底から変わってきているような感じがしてなりません。
学習面でも、以前は、知識の吸収の仕方が体系的で、0次元(点)→1次元(線)→2次元(面)→3次元(立体)という広がりがあったはずです。しかし、最近は、その場での効率が優先されてしまうのか、大人が待てないのか、知識が単なる0次元かせいぜい1次元で、それがバラバラに交錯しているだけのケースに出会うことが多いです。なので、小学校で習ったような事も、中学に入ると忘れていて、「ああ、そういえば習ったかも。」というようなあやふやな記憶になってしまっていることが増えています。
例えば、『枕草子』を読むとします。これが書かれたのは平安時代で、しかも遣唐使も廃止されて外国の影響も少なく、大きな内乱も治まっていた、のどかな時代です。ほとんどが宮中でのお話ですから、優雅な十二単などを着たりしていた雰囲気です。そういう、作品の前提を想像できずに、現代の感覚で読んでも、全くイメージが掴めません。学校では、『枕草子』は、「平安時代の中期に清少納言によって書かれた」程度の予備知識しか説明されないことが多いのではないでしょうか。そして、重要語句や文法や現代語訳という単発知識の習得に終始してしまうことも多いのではないでしょうか。
学校教育の中では、各単元にかける時間配分の制約があるので致し方ないところですが、せめて、子どもを取り巻く社会の大人の中で、知識を体系化できるような、「無用の用」的なもの、ハンバーグのつなぎのようなものを少しでも分けてあげることのできる人が増えてくれないかなあと、期待しています。
「いじめ」へのアプローチ
相変わらず、児童・生徒のいじめは後を絶たない。大きなニュースになるのは、自殺などの最悪な結果になってしまってからの報道であり、表面化されるのは氷山の一角といえるだろう。
「いじめ」について考える時に、まず「いじめ」をどう定義するのかという問題がある。一つのできごとに対して、それを「いじめ」であると捉えるか、「いじめ」ではないと捉えるか、というような、前提からして、曖昧なものである。場合によっては、当事者でさえ、「いじめている」「いじめられている」感覚がない事さえある。特に、被害者は「いじめられている」と感じて自殺まで考えるほど深刻なのに、加害者は「いじめている」という意識はなかったなどというケースもある。「いじめ」の定義が共有化されておらず、それぞれ自分の主観の世界の中にある「いじめ」について、「原因はなにか。」とか、「解決策は。」などとあちらこちらで議論がなされる。それを見たり聞いたりするたびに、私は議論が咬み合わないのもむべなるかなと感じる。じれったい気持ちに駆れらる。
ところで、根本的な「いじめ」という概念の共有化ができないのはどうしてだろうか。最近私が勝手に考えている事を(共感していただけるかわからないが)述べたいと思う。
人間には、顕在意識と潜在意識がある。顕在意識の中では、大部分の人にとって、「いじめ」は悪である。ところが、潜在意識の中では、他人への不満や攻撃願望が存在するかもしれない。現実の社会ではそれを行動に表すことはできないから、日常的には、無意識の世界(潜在意識)に抑圧している。「いじめ」について深く考える際には、自分の潜在意識の中の醜い部分と向き合わざるを得ないことになる。それを直視するのはかなり勇気が必要である。まして、他人と議論するには、その自分の暗黒の部分を言葉で表現しなければならないし、相手にもそれを強いることになる。そんなことをすれば、今まで抑圧することによって適応してきた社会に居辛くなってしまう。
人それぞれ物事の捉え方がある。それが個性でもある。しかし、人間同士なのだから、理解し合える事もたくさんあるはずだと思う。お互いにみんなが長所も欠点も含めて、認め合い、尊重し合えるようになることは、難しいが、不可能ではないと思いたい。
「いじめ」について考える時に、まず「いじめ」をどう定義するのかという問題がある。一つのできごとに対して、それを「いじめ」であると捉えるか、「いじめ」ではないと捉えるか、というような、前提からして、曖昧なものである。場合によっては、当事者でさえ、「いじめている」「いじめられている」感覚がない事さえある。特に、被害者は「いじめられている」と感じて自殺まで考えるほど深刻なのに、加害者は「いじめている」という意識はなかったなどというケースもある。「いじめ」の定義が共有化されておらず、それぞれ自分の主観の世界の中にある「いじめ」について、「原因はなにか。」とか、「解決策は。」などとあちらこちらで議論がなされる。それを見たり聞いたりするたびに、私は議論が咬み合わないのもむべなるかなと感じる。じれったい気持ちに駆れらる。
ところで、根本的な「いじめ」という概念の共有化ができないのはどうしてだろうか。最近私が勝手に考えている事を(共感していただけるかわからないが)述べたいと思う。
人間には、顕在意識と潜在意識がある。顕在意識の中では、大部分の人にとって、「いじめ」は悪である。ところが、潜在意識の中では、他人への不満や攻撃願望が存在するかもしれない。現実の社会ではそれを行動に表すことはできないから、日常的には、無意識の世界(潜在意識)に抑圧している。「いじめ」について深く考える際には、自分の潜在意識の中の醜い部分と向き合わざるを得ないことになる。それを直視するのはかなり勇気が必要である。まして、他人と議論するには、その自分の暗黒の部分を言葉で表現しなければならないし、相手にもそれを強いることになる。そんなことをすれば、今まで抑圧することによって適応してきた社会に居辛くなってしまう。
人それぞれ物事の捉え方がある。それが個性でもある。しかし、人間同士なのだから、理解し合える事もたくさんあるはずだと思う。お互いにみんなが長所も欠点も含めて、認め合い、尊重し合えるようになることは、難しいが、不可能ではないと思いたい。
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